-エンターテイメントの原点が生まれた面接

 面接ではAD以外にもディレクター、プロデューサーの方々がいました。そして、ラーメンの話とか色々語ったら、プロデューサーから「大阪弁っていいよね」と言われたんですね。「もっと大阪弁で話して下さい」って。

 「でも、意識してないんで、話せませんわ。なんかシチュエーションもらえます?」って言ったら、プロデューサーから「友達に10万円を貸していて、今日が返却日だったので、返してもらいに行った。すると、そのお金をパチンコで全部使っていたので、問い詰めるというケースでやって下さい」と言われたんで、適当に話したら、「キャラがいいね」と言われました。

 そして面接が夜中の2時30分に終わって、新幹線で大阪に帰ろうと思って、東京駅に着いたら、新幹線が走ってないんですよ。今なら始発時間は分かりますが、当時は知らなかったし、お金もなかったので、仕方がないから東京駅で旅行のパンフレットを下に敷いて寝ました。そして、店を開けるために朝一で大阪に戻りました。

-順風満帆に進んだテレビ出演

 後日、合格の通知が来ました。

 勝因はテレビだから、大阪弁かもしれませんね(笑)もちろんラーメンの情熱も語りました。収録が始まってからは順調に話は進みました。

 その頃ですかね、自分は人を喜ばしてあげたいと自覚したのは。エンターテイナーというと何かかっこつけてるかもしれませんが(笑)

 その番組では頑張って、最終のコンテストまで残ったんです。最終のコンテストは出場者がそれぞれ1杯のラーメンを作って、 200人の一般審査員が一番おいしかった人に1票を入れるというものでした。優勝者は店を持つことが約束されていました。

-初めての挫折。横浜でのラーメン修行を決意

 最終コンテストの結果は5票差で敗けて、2位になりました。それが悔しくて、悔しくて・・・。

 その時のプロデューサーが「悔しいでしょ。でも、同じ番組の中で女子プロレスラーを目指すという企画もあって、1位になった子はすぐに引退したけど、2位の子は自分で頑張って続けているんだよ」って言われたんですね。

 それなら自分でも「やりきってやる、抜いてやる」って決めて、その番組の講師だった佐野実氏についていって、新横浜のラーメン博物館の「支那そばや」で働くことになりました。

 その時はそこで技術を盗んで、そこから独立しようと考えてました。すぐにテレビの流行りで開店することもできたけど、人の力を借りたみたいで嫌やったから。

 「結局本物が生き残るわけで、流行り廃りにはなりたくなかった」